昭和42年5月20日 夜の御理解


 神様に一心にならずして、神様にだけ一心になってもらいたい。
 神様にだけに一生懸命になってもらいたいと願いながら、自分は一生懸命にならないなんて、それだけでも おかげを受けられない事がわかりますね。
ですからそこのところを最近、打ち込むという事を話すんですけど、此頃 堤堤さんがお夢の中にお知らせを頂いてまして、時間を励行するという事でも、これは打ち込んでおらなければ難しいかというと、打ち込んでおればですね、見易く出来る事がいくらもある。例えば明日は親教会の月次祭ですから、私、前の晩に必ずあの私と長男と長女とお参りしますから、三人の御初穂をきちっと準備致します。
こけなんかはですね、もういうなら打ち込んでおる印なんです。ですから難しいことじゃないでしょうが、同じ金額、前の晩にしたって、明くる朝にしたって同じ事、打ち込んどるとです、それが本当にそうさして頂かなければ、おられんのです。時間でもそうです、打ち込んでおればですね、実際に励行しなければおられんのです。だから打ち込みも色々ありましょう、例えて云うなら今日は菊栄会でございますから、菊栄会の連中が 菊栄会の時にはどんなことがあったっちゃ、会員の方達が 晩 一時までも二時までも共励会するのですから、しかも福岡の方から 遠方から来るのですから、来るという事だけでも打ち込みなんですね、打ち込んでないと今日は都合があるけんで、御無礼しようという事になるのです、それでも打ち込みです、なら もうちょっと打ち込もうというたら、時間にはきちっとという事になるでしょう。それから先の打ち込みという事は、もう限りが無い事です。打ち込んでおれば楽に出来る事、心がけておれば楽に出来る事、それを心がけていないという事は、すでに打ち込んでいないと云う事なんですよ。
ですからそれは形や真似でもないです。自分で心がけておけば骨折らずに何でもない中に出来るんです。時間励行というのは、菊栄会の会長の久富さんが、この人は時間をいつも厳守されます。他の方達にしても、これだけは厳守されます。これはやはり、その人の性格がそうだというだけではなくて、その事に打ち込んでいるから出来るんだと思うのです。
今日も午前中に芝を張りますので 芝生を栽培しておるところに行ったんです。ところが自分が思って行ったところは留守でいなかった。そこで近所の芝生屋さんに行ったところが、そこは五十円程違う、五十円違えばたったわずかですが、五千円も違うことになる。それで契約せずに帰って来て、今日私教会に九時にまいりますから、あちらに帰ってみえたら連絡して下さるように、という事であった。九時ちょっと前に参って来て、お届けが済んだところに電話がかかってきた、丁度向こうも九時というてあるから、九時に電話がかかってきた訳なんです、それで承知しました、納品致しましょうという事になったら、五千円だけ儲かった。例えばなら十分か二十分だけ久富さんが遅れて見えてごらんなさい、かけましたけど貴方が留守だったという事になり、たとえば金額が五千円位の事であっても、互い違い、ちぐはぐになってです、いらん事に電話料でも払わなならん、又、かけた時に先方がいなかったり、といったふうになってくる、ですから どうでも一つ、信心させて頂く者は、いよいよ打ち込ませて頂かねばならない、その事がやはり神様はお喜んで下さるんですよ。打ち込んでいるという事は、打ち込む事によって、たとえば滔々と流れている地下水に必ず打ち込んで行く事が出来ると仰るのですから、何十年信心しておっても打ち込みがなかったらです、その、とうとうたるという おかげに到達しないで終ってしまうのです。ただもらい水的なものなんです。そしてどうぞ おかげ頂かせて下さい、どうすればおかげ頂くじゃろうかばっかりと云っていただけでは、おかげになりません。打ち込まなければ、神様の事はああだから、こうでございますからと言い訳ばっかりしておる。こうしてお参りしようと思いよりましたけどこうでした、もう言い訳。打ち込んでおれば出来ない事ないことをです、右、左にしていくんですから、おかげが右、左になるはずなんです。神様に喜んで下さるといえば、一昨日でしたか、北野の上野さん、あの人が久留米に縁についています、安武に、ご主人も立派な方だし、家も財産家でもありますし、本当におかげ頂いておるんですよ。ところがああいう気性のはげしい人ですけども、云う事、する事が一致していくんです。ですから主人もついてくれば、親もついてくる、兄弟達もついてくるんですね。先日から義姉さんになる方が癌で手術をされました、その時に愛子さん、あんたがお参りしよるところにお願いしてくれんの というてから、本人も両親も頼まれたという事である。昨日、一昨日は、姑親の義母さんと、義妹さんと三人で参って来た、久留米に縁づいてられる義妹さんが、色々の病気を持っておる、健康そうにしておるけれども、とにかく全然お百姓さんだけどもお百姓もで件というような状態。そこでここに見えてからでも、義姉さんとお母さんが云いなさるけん参って来たけど、どうせ私は早死にするとですけんと、もう投げやり的な事を云われる。それでお母さんが涙をボロボロ流されるとです。もうほんに私共が長生きしすぎてから、元気過ぎてから、子供達が弱すぎてからと云って泣かれるんですよ。それで私が申しました、あんた折角お参りして来たのに、そげな事ではおかげ頂かんよ、おかげ頂こうと思って参って来ないけん、そして親にこんな悲しみさせてから、おかげ頂けえるはずなかですよと、私がしばらくお話しましたら、自分もやっぱり実際は良くなりたい、実際は健康になる為ですから。しまいに自分も涙を流して真剣にお話を聞かれました。それでね 私が、もうあなたの身体の上の病気といったような事は、沢山あろうけれども、私が病名を知る必要はないから、今日から私が身体の事をお願いするから、とにかく病気が良くなっても良くならんでも、お百姓が麦の取り入れに出られないというような事ではいけないから、麦の取り入れに出られるようにと、お願いするから、変わった事が身体の上に起ってきたら、しるしが見えたら、またすぐお礼に出ておいで、その時ゆっくりお話させてもらうから というて昨日おととい帰りました。
今日もです、愛子さんから電話がかかってから、久留米の方から参ってきたでしょうかと、参って来とらんというたら、「そうですか、あげん云うとったのにどうして参りんされんとやろか」と云うて電話を切った、すぐその後に参って来たんです。ところがこの前の時と大分態度が違う先生が、ああして云うて頂きよったが、やっぱりおかげじゃろうと思います、気分的にどうかわからんのですが、痛みが痛まず、ここにぐりぐりがあったのが、なかごつなったと、そら気分からとか、そんな事はいかんよ、ああやっぱりお願いして頂いておかげを頂いたと思わないかんよ、と、今日帰ったら早速安武の方に電話かけなさい「もうお母さん、合楽参りさせて頂いたら、もうおかげで私もいよいよ助かるばい、姉さんおかげで良か所にお導き頂いた、先生が印と仰ったが、印どころか、もうこんなふうにおかげ頂いて」と云うて電話しなさい、愛子さんがどんなに喜ぶか分かりません、お母さんがどげん喜こばれるか知れませんよと、その喜びこそがね、神様が喜びなさる事ですよ、その喜びがあなたの身体の上に、またおかげにならんはずがない、十有難いなら二十有難いように、二十有難いなら四十有難いように喜べとおっしゃる。氏子が五つの物を十有難いと云えばもう、十のおかげだと、十の物を二十有難いように云えばもう次には二十のおかげじゃと仰る。さあ、おかげ頂ききらんとか、もう喜ぶどころか神様に対する不平やら、不足やらどんばっかり並べて、おかげ頂けれるはずがない。そこで丁度、中村さんが今日二度目のお参りをして見えたんです。ほら、あそこにお参りに見えた方はね、こんなふうでお母さんが、こうこういうような病気で、こういうふうにおかげ頂いて、最近はこんなおかげを受けておられますよ、というて 実際の人を前にして話をしてから、本当に嫌なこと云って済みません、本当にお願いしておかげ頂きました。帰ってから愛子さんと、親に電話をかけますと云って今日は喜んで帰ったんです。
ですから難しいことじゃないんですよね、信心とは、この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと、本当に五つ位しか有難くなかったっちゃ、十有難いように表現して行く事なんです、信心とは。と同時にそういう信心にいよいよ打ち込ませて頂くという事がです、例えば私が親教会のお月次祭に、前の日から御初穂をつつむ、それが打ち込む事だから、そんなら私もそげんしようというて、真似ただけでは打ち込みじゃないのです。これは私だけのもの 親教会の月次祭というのは、絶対のものだと思い込んでいるのです、ですから前の日から準備する、これは打ち込んでいるしるしなんだ。この事だけではない、他のことだって一切打ち込んでいるしるしなんです。打ち込んでおればです、例えば八時なら八時のお祭りのおかげを頂こうと、いわば七時半におかげ頂けんはずはない。実にみやすい事なんです、その見易いという事も、打ち込まなければ難しい事になる。しかもそこをしだこだにする、もう良かたい、今日お祭りしようと思うたばってん、また この次にしようと。いいえお参りさして頂こうと思ったら、どういう事があってもお参りをする、これは打ち込んでいるからお参りが出来るのです。それで打ち込む事は難しいかと云うと、難しい事ではないという事、今日は何時にお参りするぞと決めたら、ちゃんと心がけさして頂いておけば絶対に出来る事だと、しかも見やすうできることだと。信心は見易いものじゃが、氏子から難しゅうすると、それが参られんとか、もう何時になるけん遅うなるけん参らじゃこてというて参ってもつまらん、そしておかげだけは充分に頂きたいというて おかげ頂けるはずが無いじゃない。
 自分も一生懸命なら 一生懸命の印を神様に表していかなければ。私は貴方にこれだけ打ち込んでいます、というたら打ち込んでいる印を見せなければ、神様が打ち込んだ正確な、きちっとしたおかげを頂きたいなら、きちっとした正確な信心に忠実にならなければ おかげにはなりません。そういうところをです、信心ちゃ元気同断で厳しいんじゃだといわずにです、その気になれば一つも難しい事は無いという事、しかもそれが打ち込む事になるのですから、折角させて頂くんですからのんべんだらりとした信心が何十年続いたってつまらん。打ち込んだ信心を続けて、本当に滔々として流れておる おかげの水というか、おかげの地下水に私共が到達するところまで、本気で打ち込まして頂いて、しかもその打ち込む事においてはです、限りが無いということ、その限りないおかげを頂く為にも、限りない精進を続けさせて頂いて、おかげを頂いていかなければならないと思いますね、    どうぞ